憑依俳句宣言

 他人がどのようにしてアイデンティティを保っているのか、わたしにはさっぱりわからない。
 
 わたしの俳句を二十句ほどまとめて友人に見てもらったときのことである。「統一感がまるでない」と評された。
 
 なるほど、言われてみれば、たしかに統一感はない。作中主体が少年であったり、女子高校生であったり、ホステスであったりする。あえて作中主体を統一しようという意識はなかったのである。というか、友人の指摘により初めて俳句における統一感という概念に触れたのだった。
 
 俳句には「句会」という遊びがある。無記名で俳句を出しあって、投票で点数を競い、批評し合う。わたしはたびたび、「そんな俳句も書くんですね」「あなたが書いたとは思わなかった」と言われてきた。
 
 たとえば、初恋のひとに白髪がある、という内容の句を出したとき、ほとんどの参加者は年配の女性が作ったものだと思ったようだった。
 
 おそらく年配の女性が語り手の小説を読んだ後だったのだろう。作ったときは、たしかにそういう気分だったのだ。そう、赤子を見れば「わたしがママよ」という気持ちになり、やくざ映画を観れば肩をいからせて映画館を出て、何もかもいやになったら幼児化して駄々をこねるのが人間というもの。一句詠むごとに作中主体が変わるほうがむしろ自然なことなのではないだろうか。
 
 前述の友人によると、わたしの俳句の統一感のなさは、文法にも及んでいるのだそうだ。「や・かな・けり」を駆使して文語で書いていたかと思えば、「してる」「ですか」と口語的な表現を使っていることもある。
 
 しかしこれもわたしにとっては自然なことなのだ。普段話すときはアニメキャラの口真似からビジネス敬語まで、様々な言葉を使っている。俳句だっていろんな言葉で書いてもいいではないか。
 
 世の俳人たちは、どのようにして作風というアイデンティティを保っているのだろうか。俳句総合誌や入門書には、切れ字の使い方や季語の本意については書かれているが、作品群に統一感を出すためのテクニックが紹介されているのを目にしたことがない。これはつまり、わたし以外のひとたちは、作品に統一感を持たせる能力が先天的に備わっているということなのだろう。
 
 俳句には、作中主体を作者自身のように読むならわしがあるらしい。俳句の祖である連句の第一句目、つまり発句は、その座を構成する人々への挨拶として詠んだのだそうだ。そこで詠まれる発句は、目の前の、顔が見えている人物からの発話であり、作中主体と作者は同一である。
 
「今日はこんな涼しい川辺に席を設けてくれてありがとう……って隣の山田さんが言ってます」
 
 という挨拶は普通はしない。「わたし」から「あなた・あなたがた」への挨拶だ。
 
 俳句における作中主体は「わたし」……「わたし」は作中主体……わたしはここで思い至ったのだ。わたしのアイデンティティが定まらないのは、そのときどきでいろいろな人物に身体を乗っ取られているからではないか——。
 
 思い返せばバスや電車での移動中など、眠気で朦朧としているときに俳句ができることが多い。締切前にふと意識を失い、翌朝ノートパソコンのなかに見覚えのない原稿が保存されている、ということもあった。そういえば、服装や髪型がよく変わるとも指摘されている。
 
 信じがたいことだが、これはもう間違いない。わたしのなかにいつも別々の誰かが入ってきて筆を握っているのだ。
 
 わたしは、憑依されている。
 
 ならば、だ。一句ごとに別々の人物に憑依されるのではなく、二十句なら二十句分、同じ人物に憑き続けてもらえば、統一感のある作品が完成することになるのではないか。
 
 いままでは、一句単位でしか憑依されていなかったため作風がばらばらになってしまっていた。統一感のある作品群を作るには、憑依期間を長くし、一句ごとではなく何句かまとめて作ってもらわなければならない。
 
 すでにわたしはこの方法を体得しつつあり、8月31日発売予定の『guca紙』には、腐女子・事務員・家庭教師・ショップ店員・S嬢の五人に、それぞれ七句を委ねた「憑依俳句集」を収録した。五人の俳句から一句ずつ紹介しよう。
 

柏餅じやうずに剥いたはうが攻め   腐女子

メーデーになんの予定もない予定 _(:3 )∠ )_   事務員

ダンゴムシ用筆箱のあるらしき   家庭教師

あらゆるかたちを四角くたたんであげる   ショップ店員

ひとを吊るほそきちからや星冴ゆる   S嬢

 
 別々の人物が作っただけあって、口語・文語、現代仮名遣い・歴史的仮名遣い、定型・自由律など作風に幅があるが、それぞれの人物の七句をまとめて見たときには統一感が見出せるはずだ。ぜひ『guca紙』にてご確認いただきたい。この「憑依俳句集」をもってわたし石原ユキオは、「憑依系俳人」を名乗ることとする。
 
 同じ人物による継続的な憑依は、精緻で科学的な手続きとスピリチュアルな儀式とを行うことにより可能になるのだが、文字数の都合上この場では詳細を説明することはしない。ただ、非合法的な薬物を使用していないということだけは、世相を考え付記しておかねばなるまい。
 
 こうまでしなければ作風に統一感が出せないわたしは、おそらく少数派なのだろう。しかし、わたしだけが世界にたったひとりの特異体質だとは思えない。よく言うではないか。ゴキブリが一匹いたら十匹はいると思え、と。わたしはこの宣言で、同じ体質に悩む人々に勇気を与えたい。
 
 ひとは誰しも、自分が選ばなかったほうの人生に興味がある。自分自身の人生に疲れたら、他人に憑かれてみる、というのもよいのではないだろうか。
 
 

2012年8月16日
憑依系俳人 ۵ 石原ユキオ